週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

幸せなひととき

清んだ青空と、豊かな山々、そこから連なる大河と、その川辺に整備された芝のグラウンド、そこでサッカーの試合が執り行われ、それらを観戦。小腹が空けば美味しい空気のもとおにぎりとお茶を頂く。傍らには家族。

幸せなひととき。

私はこれからもこうしたひとときを望む。こうしたひとときを幸せに思う。

もっともっと浸りたい。もっともっとだ。

ハッキリとしてきた私の幸せの形態。これらを望む。どう実現するか。それだけだ。

それらは衣食住の確保のうえに立つ、、、とはこれまでの考えだ。果たしてそうか。そうなのか?

1,000万/365日=2,7万円

所謂豊かな生活は1日2,7万円!?

えっ、そんなに必要なの!?んー、、、

幸せなひと時

幸せなひと時

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現状打破5

現状打破。

現状を打破する手段はいくらでもある。

現在の状況を作り出している行動を変える、内容を変える、さすれば現状は変わるのだ。

しかし「打破」という大袈裟な言葉が採用されているのには理由がある。

分かっちゃいるけど、それが(行動を変えるが)できないのだ。大きな壁なのだ。

やはり現在を変えるというのは「打破」というように打ち破るエネルギーを要することなのだろう。

そんなエネルギーが私には無い。挑戦するエネルギーも然ることながら、逃げるエネルギーも無い。このエネルギーは勇気と言い換えられる。勇気が無いのだ。

現状という呪縛から抜け出せない。現在に満足しているならまだしも、長年の不満を抱えつつ抜け出せないのだ。

「そうは言っても食事にありつけ、家族に恵まれ、考えてみれば幸せだ」なんて自分に対して説得に入るのだが、それではダメなのだ。

変えたい(自分を変えたいのではない。現状を変えたいのだ)。自分を変える必要はない。あくまで行動を変えるだけだ。それでもその行動を変える勇気がない。

どうする。

勇気を必要とするまでの大きな行動は取らずとも、小さなことで新しい行動を加える、或いは減らす、或いは変えてみてはどうだ。

一つ成功例がある。

それまで運用にはいっさい手を出していなかったが、少し前にやってみることにした。このままの給与からの積み立てでは、理想とする自由を手にすることはできないと思ったことが背景にある。運用でそれが実現できる目処は付いていないが、少なくとも近づく、或いは可能性を高めることにはなると判断した。

すると足元給与からの一部を積み立てたよりも確実に上回る積み上がりが実現できている。理想との解離は大きいがそれでも心のゆとりはこの部分では広がった。

これは一例だ。

小さな新たな行動、そして時間を味方につける。これなら「打破」ほどのエネルギーをかけずにできる。一気呵成には現状を変えられないかもしれないが、小さな現状変更は実現できそうだし、「打破」のタイミングが訪れた際のエネルギー源に育っているかもしれない。

そうだ、勇気がないなら小さなことから現状に無かった行動をしてみよう。私にとっては先の運用とこのブログはその一つなのだ。このブログも心の平穏に一役かっているが、自由を手にする一助に成長してくれることを期待している。

さぁ、いざ!

 

 

価値観

中年の皆様はそろそろご自身の価値観に気づきはじめているだろう。

価値観≒好き嫌い と言ってもいいかも。

世間があーだこーだ言っても、そんなん関係ねえ、俺はこういうことが好きだし求めている。世間の価値観に自分を寄せても(そもそも寄せれない)、満足を得ることはできない。ということ。

私は気づいてしまっている。

しかしだ。異なる価値観の組織に長らく属し、生活基盤がその仕組みによって支えられている状況。

私の好きは①家族との時間②自然との接点③ゆとりある生活 だ。

これらがいま笑えるくらいに確保が難し。皆々様は何故これらを犠牲にする生活に耐えられるのだろう。

価値観ですな。

それにしても一度出来上がった体制を軌道修正することって、本当に大変。

それでもなんとか自分の価値観に沿った人生をおくるべく、虎視眈々とその時を狙っております。

世の中年の皆様!その時は来るはず。そのチャンスを逃さぬよう、粘ろうではありませんか。

日々精進。

センタンの白くまアイスバー

旨いっ!

んー、旨い!

わたくし、ほぼ毎日食べている。買いだめのつもりで二本単位で買うものの、美味しくてそのまま二本食べてしまう。

なんだろう。

あの細かな氷の粒子により「シャク」っと崩れた後にやってくる、ミルキー的な乳脂肪感。でも決してねっとりするのではなくあくまでサラリとしている。牛乳に氷を入れて少しだけ水っぽくなるあの感覚。

そして大きなパインと、主張のあるミカン。よくある缶詰果物だと思うのだが、白くまアイスで食べると、その相性が本当によく、これがまた美味しいのだ。

アイスをよく食べる私にとって、センタンさんの商品への信頼は高い。

幸か不幸か暑い日が続いている。

本日も結局頂くことになるのでしょう。

感謝!

  ↓  私は大きいバージョンのがもっと好き

森へ行きましょう

ひょんな事情で、森に囲まれたお宿で本日は目を覚ました。

圧倒的な野鳥の声、朝からヒグラシの声も聞こえる。どこにあるのか川の音もずっと響いており、視界にはうっそうとした木々。美味しい空気に安心して深呼吸をする。

心地がよい。

普段の無味乾燥した住宅街の景色と、車の音、深呼吸を憚られるホコリっぽい空気とはやはり違う。

人は自然の一部。

自然環境の影響は当然に受ける。そうであるならばもっと美しい自然を求めるべきだとあらためて想った次第。

昨日は大気が不安定だったのだろう、夕方に急で激しい雨と雷鳴が鳴り響き、これもまた鬱々とした最近の気分に良い刺激となった。

こうした自然に対する評価を多くの人は持っているし、実感もしていると想うが、その重要性や、日常的に必要なものという認識は、異常に低いと思う。そうでなければ、無味乾燥とした生活環境が、ここまで広がらないはずだ。

欧米(おそらくあらゆる国)は首都圏でも広大な自然に触れることのできる環境がある。日本は最近でこそ新規開発に自然の要素を入れ込む規定ができたようだが、規模も質もお飾り程度だ。

自然が、日常的に本質的に重要なものだという認識が薄すぎる。

そんな環境下でビジネス活動なんかするものだからギスギスした愛の無い、余裕も無い、もっというと本来的な目的を見失った、自分欲求に傾斜した、ゲームのようなビジネス活動に陥るのだと想う。

森や川、人以外の生物の営み、これらの自然にもっと還るべきだと想う。言葉にできないが、そして焦点を絞れないが、そこには生きる目的みたいなものが、静かに示されているように感じる。言葉にできないのだが、「あっ、人が生きるってそういうことなんだ」みたいな感覚になるのだ。

そこには競争で勝たねばならない的な発想は生まれない。満たされていることに気づくからだろうか。

そんなことを想った本日早朝。今日は神社にお参りにも行ってきます。

好きなことを優先する。好きなことをものにする。

想う。

自分の気持ちに素直に生きることがとても大切だと。

我がままと同義に聞こえなくもなく、我がままは通常負のイメージで捉えられるため、無邪気に「素直に生きる」なんて言ってる場合じゃないと言われそうだが、いやいや大切だと想う。

社会に生きる以上、素直をそのまま出してはいけない場面もある。抑制を効かさなければならないこともある。それは当然だ。

だが私が言いたいのは、素直=自らに湧く自然な思いに沿って生きるべきで(上記の通り社会に生きる以上、ある程度の抑制は必要)、自らに湧く嫌だと思う感情に反した生き方はすべきでないというものだ。

社会に生きる以上、嫌なこともやらなければならないと言われそうだが、そこが違うと思うのだ。

何度も言うが、社会に生きる以上、素直な気持ちに沿った行動も、場面では抑制しなければならないだけて、なにも嫌なことを敢えてする必要など無いのだ。

それをごっちゃにしていないだろうか。

抑制のない我がままな行動は世間を困らせるが、嫌だと思うことをしないことは世間を困らせない。代わりにそれをやる人はいくらでもいる。

私が会社で歌いたいときに大声で歌い、無駄話を仕掛けて、人の仕事の手を止めたら、その会社的に迷惑だが、私が会社を嫌だから辞めたとしても、瞬間的な迷惑はかけるかもしれないが、すぐに代わりが来て事なきを得るのだ。

そう考えると、「嫌なことはしない」ということを阻むものは実は無いのだ。

単に自分の立場や状況が悪くなるのではないかという恐怖感から、嫌なこともせざるを得ないとなっているだけだ。

さぁ、嫌なことはなるべく避けて、好きと思えることをもっと優先しよう。そうでないと、そのうち自分が何が好きなのか分からなくなると思う。

いま、ぱっと好きなことが挙げられないなら危険領域にいると言えよう。

自分を取り戻し、素直に生きよう!

 

場当たりで生きる方が良いかも

やれ人生設計だ、やれまえもった準備だと囃し立てられているが、本当にそれは必要なのだろうか。

もっというと意味があるのだろうか。

私はこれまで「すべきこと、せねばならないこと」を頭で考え、「あー、これをしなきゃ、準備しなきゃ」とやや心配性な感じで、気持ちがノル、ノラない関係なく事前準備に意識が取られていた。

一方で私の連れは真逆の性格で、気持ちがノラない、ワクワクしないことは、徹底的に後回しにするのだ。常に「今」なのだ。

これまでは、その姿勢が理解できず、「前もって準備すれば、こんなにバタバタしなくてすんだのに」と思う場面がたくさんあったが、最近は少し捉え方が変わった。

結局将来訪れる「その時」の状況なんて、当初想定した通りになるとは限らず、また「その状態」がベストな状態とも限らない。そもそも当初の段階で気持ちのノラないその状態に向けて何かを準備するとしたら「今」がもったいない時間になるように思う。人生は今が連なって出来上がるとすれば、ワクワクしないことに時間を割くことはもったいないことのように思えてきたのだ。「今が良ければいいじゃない」の精神をもっと大切にしようと。

所謂「今だけ楽しきゃいいと過ごしていると将来苦労するよ」の呪縛から、この歳でようやく距離をおけるようになってきた。

上は一理あるものの、「今」が、常にどうなるか定かではない「将来」のために費やされ(ワクワクする将来像への準備等、今が楽しくなりのであればいいが)、「今」が失くなれば、それは人生を失くすことになるのではと想うようになってきたのだ。

「時の流れに身を任せ~」と伝説の歌姫が歌ってらっしゃいましたが、ほんとそんな感覚になってきたのだ。

私も人生の半分をきっと過ぎた。

自分のこと、愛する家族、友人、その他もろもろのために、それらの「今」なもっと意識と時間を割けることができるようにしたい。

以下はきっと私の思いを全否定してくるのだろうなぁー、、、