週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

自立

自立しよう!
何も自分一人で生きられるようになろうと言っているのではない、人は社会に生きる以上、意識してようがしてまいが、人のお世話になっている。但し、生きる上でお世話になる相手が一つに偏りすぎないようにはした方が良さそうだ。例えばサラリーマン。生きる上で(生活する上で)相当に所属する組織(会社)のお世話になる。当然にありがたい存在だ。但し、生きる上で(生活する上で)お世話になる相手が会社に偏っているとしたら、それは自立していることにはならないと想う。偏った状態は極論を言えば『お世話になる』よりも『支配されている』に近い。何故なら生きる上でその組織の行動や、もっと言えば考えにすら抗うことは困難だからだ。要は『対等』ではない。
小生は想う。偏った状態は意識すら支配される。大袈裟な言い方だが、若い時分もそうだったように、組織の考え方に、或いは世間の『サラリーマン道』に考え方が染まり、無理をして頑張ること、体と心を壊しながら生活することに違和感を覚えず、或いは違和感があっても、この違和感は努力の足らない自分が生み出した違和感であり、そんな違和感を覚えること自体に罪悪感を感じてみたりして、その違和感に寄り添わない。要は考え方すら支配されてしまうのだ。フラットに考えよう。日が登る前に家を出て、暗くなるまで仕事場にいる、夜中に帰宅し食事は寝る直前、一日のストレスを消化する間もなく次の日のそれが始まる。家族にも負担をかける。こんな不健康な生き方を、色んな理由をつけて受け入れてしまうのは、生きる上で(生活する上で)お世話になる相手として、組織なりが唯一無二の存在になっているからだと想う。つまり自立できていないからだと想う。
要はバランスなのだ。自立できているかなのだ。組織にいること自体は問題ではない。実際に大きくお世話になっている。その組織の考え方に触れることにも意義がある。その一方でそれだけになってはいけない、危険だ。経済的な自立があればそれに越したことはないが、特に言いたいのは精神的な自立を心掛けること。それは意固地になることではなく、色んな考え方に触れて、敢えて違和感のある考え方にも触れて、自分の考え方に柔軟性を持たせるのだ。さもなくば、今持っている考え方(価値観)に従ってことが進む限りでは問題無いのかもしれないが、そうでなくなったとたん、その考え方(価値観)は自身を苦しめる存在になる。自分を甘やかす考え方という言い方が受け入れにくければ、自分を生かす考え方と言えば良いだろうか。そういう考え方も自分に厳しい考えと平行して自身の中に持っておこう。
そう、自分は自立できているか、その言葉を常に自分に投げかけながらこれからも日々を過ごそうと想う。