週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

共感の喜び

小生が我が強いと想う。
当たりは柔らかいが、おそらく我が強い。
人の意見に一見流されているようで、納得できていないのだろう、結局その意見は参考に留まる。
よく「尊敬できる人」とか「モデルにしたい人」をつくると良いと見聞きする。
そういう人がいると人は伸びる、と言いたいのだろうが、小生にそんな人はいない。

「この人すごいっ!」とか「素敵だなぁ」はあっても、「この人みたいになりたい」は殆ど無い。人が違うのだ。
要は自分の考え方や価値観に近い人を身近に感じたことが無い。

それはそうだろう。人の考え方や価値観などそう容易く分からない。分からなければ「この人みたいになりたい」と想えない。表面的な姿はその人の一面を映しているに過ぎない故、真似る(学ぶ)ことに至らない。

そんなこんなで、なんとなく「孤独」を感じていたわけだが、最近久しぶりに出会ってしまった。
本の著者なので、リアルに会ったわけではないが、読んでいて「そうそう、そういうこと」と頷くことばかり。
本を読む楽しみは、自分に無い知見や意見を得られることもそうだが、自分に近い意見、考え方に出会うこともまた大きな楽しみ、喜びだと改めて想った。

本だからその人の考え方や価値観がしっかり記載されているし、表面的な部分はそれこそインターネット上でいくらでも収集できる。その人柄を入り口に、その人の考え方や価値観も近いことを確認できると、なんとも満足感に似た喜びを感じる。小生みたいな人が、この世に他にもいるんだなと想えるだけで孤独感も和らぐ。

多かれ少なかれ、人は「共感」の機会を求めているのではないだろうか。
コロナ禍でそれはより明るみになった。
SNSの活況はそれを示しているが、SNSだけでは、もしかすると「相手に合わせて共感関係を構築している風」に留まり、「自然体の共感関係」には至らないように想う。
SNSをきっかけに何か行動を共にする等々があって、そこで生まれた感動や感覚を共にすることでまさに共感が育まれるということはあるのかもしれないが、そうした機会を経ないSNSのやり取りではなかなか共感を得るのは難しいと想う。

ところが小生は上記の「時間を共有する」とか「行動を共有する」とかが億劫でしようがない。その時間も無い。
そんな人にうってつけなのがやはり「本」とか「記事」ですね。

これからも、出会いを求めて寂しくなったら本屋に行こうっと!