週刊「想うのよ」

想うことを綴ります

生きてることがつらいなら

生きる辛さ、、、「つらさ」と「からさ」って同じ字なのね、、、

本題に入る。生きる辛さとは。小生は想う。肉体的なつらさ(痛いとか苦しいとか)は、万人が同じく感じる同じような種類の苦痛、つらさだと想う。このつらさの解消策については医学に譲る。

世にいう生きるつらさとは、多くは心のつらさのことだろう。心のつらさは、万人が感じるであろうが、その中身、要因は千差万別。ある人の要因は別の人からみれば何故につらいのか分からないことだったりする。それでも共通項を探すとすれば多くは「不自由さ」に由来するのではないかと想う。

自分由来の、自由で解放された想いと違う、或いは違和感のある、そうした観念や考え方に囚われていて(多くは無意識に)、そのギャップに苛まれ(さいなまれ)、はじめは、だましだまし日々を過ごして紛らわせていたものの、それがじわじわと積み上がり、いよいよだまして生ききれなくなる。結果、生きてることがつらい、と感じるようになるのではないか。

そうであるならば、生きてることのつらさの緩和のためには、自然体でいられるような、そんな環境に身を置くことが肝要。

小生は現在サラリーマンをやらせてもらっていて、ありがたい反面、つらい。世間は「安定した収入があって家族も養えて贅沢なことを言うな」となるかもしれないし、贅沢なことを言っているのだろうが、でもつらいものはつらいのだ。正論でこのつらさが解消されたら、誰もが幸せになれるのじゃ(興奮して言葉が乱れた、、、)

やはり「不自由さ」に由来すると想う。小生は、家族に対しては、ありのままの自分を出せる(小生→家族の一方向だが、、、またそれを家族が望んでいるかと言えばそれもまた別問題だが、、、もう少し格好つけてくれた方が良いと言われること多々、、、)。つまり素直な自分、自由な自分が出せるので心地が良い。あとは一日の大半を占める仕事時間がそんな時間になれば、きっと生きることのつらさが和らぐのではと想像する。でもそれはどうやら無理(涙)

故に、サラリーマンからの解放が目標だ。先のブログにあるように、だからと言って今すぐに辞める勇気も技量もないわけで、もうしばらくはサラリーマンだ。

ここで大切なのは、「ほら、結局、つらさから解放されないじゃん」となげやりにならないこと。「なげやり」は事態を悪化させるだけ(、、、)。

みんな多かれ少なかれ生きることのつらさを感じている。それでも希望をもっていきるか、絶望感をせっせと育てることに時間を費やすのとでは、「今」が変わってくる(未来がどうなるかは分からない)。小生はまだそれなりの元気があるので、希望につながるような本を読んだり、対策を考えて取り組むなりして、なげやらず、サラリーマン業もサラリーマン業としてつらいながらも真面目に取り組んでいる。

もしその元気すら無く、絶望感ばかりが積み上がるとしたら、それはそれで「生きることのつらさ」にしっかりと向き合っている故の積み上がりであり、解放への道を歩んでいるのかもしれない。

というのも、「解放」を妨げるものって、「今を支えている環境が壊れるという恐怖感」ではなかろうか。「さらに悪くなるのでは」という恐怖感。絶望感を磨きあげれば、ほとほと今の環境を良しとはしなくなるわけで、「今の環境が壊れること」を肯定的に捉えられるようになるかもしれない、つまり解放への壁が下がるようなことになるのではと想う。

ややこしいのが、中途半端な悪環境。つらい環境だけど、変に動くと更に悪い環境が待っているのではと思う余地のある現在。

この位置にいると思うのなら、自身が中途半端に「つらい」と言っているのだと認識し、「希望」を持てる位置にいるのだとの前提の上で、どういう希望を持つか、その希望を達成するために何が今できるのかを考え、少ぉ~しでもいい、行動に移す。その元気が無いというのなら「絶望感」を更に磨けばいい。どれだけに耐えられない、苦しい環境なのかきちんと認識してみる。そして今よりもマシな環境がどこにあるか考えてみる。

何れにせよ、今の環境を変えるのではなく、今の環境から脱するのだ。環境に殺されてはいけない。自分を大切にするのだ。すぐにそのための行動を取るまでに想いが至っていないのであれば(勇気が無いのであれば)(期が熟していないのであれば)、その原動力を蓄えよう。「希望を持つ」か「今の状況に絶対的な絶望感を持つ」ことが蓄えることだと想う。

小生が中学生の頃、全校朝礼である生活指導の先生が「本当に辛くて辛くてしょうがなくて、でもどうやっても解決策が無くて、死にたいと思うまでになったら、旅に出ろ、学校のこととか考えなくていい」と言ったのが、印象に残っている。その先生は、当時いじめが社会問題になっていた時期で、一部で「いじめられる側も悪い」的な風潮があったが、そのことについても、はっきりと「いじめはいじめられる側が悪いのではない。いじめる側が悪いんだ。勘違いするな」とバシっと言い切った。これも印象に残っている。当時の先生は(今もそうかもしれないが)、誰に気を使うのか断定的な言い方をすることを避けるという印象があったので、信念を持った発言だなぁと中学生なりに感心したことを覚えている。その時はその程度の感覚だったが、日を追うこどにじわじわと感動した。

話は逸れたが、そういうことだと想う。狭い意味での環境がつらいなら、それ以外の環境を求めればいい(すぐに移動できなくとも)、広い意味での環境(世間の常識、日本の常識など)で生きてることがつらいなら、それもまたそれ以外の環境を求めればいい。もっと深い意味での環境(生を受け、生きるということそのもの)がつらいなら、もしかしたら仏門を叩くのもいいのかもしれない(勝手な想像ながら、僧になる方ってそういう感性を持った方が多いのではと想う)。

少なくとも小生は「中途半端なつらさ」の段階にいるようなので、それでもつらいはつらいので、「希望」をもって日々生きております。

「その日」が来ることを願って。